【圧切さん戦国史跡レポート】伊勢詣編02

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圧切さん伊勢詣で03

さて、ここからの山道は苦行の一言に尽きます。

長い、険しい、急勾配、ひたすら登るのみ!!
まだか?というようにただ細い上り坂がどんどん続きます。
正直安土の石段や箱根の坂の方が、まだ楽だったように感じました。

地元の方が、ここをず〜っとまっすぐだよ!と教えて下さりながら、
写真まで撮って下さったり、ここでも島の人の優しさに触れて感激しながら登ります。
でも道幅が狭い上に、横からハチやらあのこわ〜〜いバタフライなどが飛び出して、
気持ちに余裕がない。急げ急げのハイキングは危ないです(@@)

それでも、フワっと視界が開けて、海の青さが目に飛び込んで来たその時、
それはそこにありました。九鬼氏の首塚です・・・・。
暫く私も佇んだ後、今度はそれから何倍かの距離、今度は急勾配の下りですが、
麓の方まで回りこんで降りた所に、胴塚がありました。

九鬼氏は、関が原において真田家と同じような選択をしたため、
東軍についた息子に、家康は西軍についたこの父親の首を所望します。
船の技術、特に大型船造船の技術が反乱分子に広がる事を、家康は異常に
恐れていた節があります。 息子は、拝命を受けた土地や官位の返還で、
父の助命を果たそうとしますが、 察した父親の九鬼嘉隆が自ら自刃して
この島で果てたのだそうです。

圧切さん伊勢詣で 九鬼嘉隆公墓

首は当時の慣例というか、家康側の首実検のために差し出さなければならず、
胴体の方が先に葬られるのが常で、 胴塚はまるでその後戻って来る首を迎える
ためかのように麓に近い方にありまして、 首塚は、一面伊勢湾を見下ろせる
場所に佇んでいます。そして、自刃したとされる洞仙庵=血洗いの池までもが、
うわっという気持ちになるというよりは、それを行った家臣達の切ない気持ちが
流れてくるような気さえして、こうしてみると、この小山一体が、もう九鬼氏の身体
そのものなんだなぁ!を実感します。首と胴が離れているのではなくて、
山ごと身体となってご神体のようにこの入り江に構えているわけですね。
だから、ここは九鬼氏そのものなんでしょう。

この小山が、以前流れていた某ジェットコースターを女体に見たてたコマーシャルの
画像と(あ~あんな感じだぁ)シンクロしてしまいました。


戦後最強と言われた村上水軍攻略の為に、信長公の命により建造された鉄甲船は、
欧州でさえも200年余の未来に出現したとされる世界初の鉄張りの船です。
現代ではこの審議について、喧しいまでの議論がなされております。
いやあった、いやなかった、などなど。でも私は100%あったと信じたいと思う一人です。
何故なら馬揃えならぬ、この6艘の船揃えなるものを大阪湾にて執り行う由の案内状を、
関係各位に文書で送っているようですし、何よりそういった記録の報告が、宣教師に
よってポルトガルへ送られた書簡に残っているのです。

発案者の信長公と九鬼氏の工夫と熱意がなければ、この船は出現する事は
なかったはずです。当時、見物に来た人々から出た言葉は「黒船だ!」だそうです。
それを思うと、幕末に「黒船!」と騒いだこの日本はいったい????と
思わずにはいられません。それもその筈、各領地の反乱を恐れる余り、徳川幕府
大型船建造禁止令なるものを出しています。

幕府の時代は、たくさんの庶民の文化は生みましたが、殿のような稀有な人間の
発想はどうも忌むべきものだったのか回避されてしまったような気がして、
生かされない消えた文化を大変に惜しいと思えてなりません。

(続く)

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